夜の100通りの走り方

宵っ張りのミーハー大学生が心の赴くままに趣味を広げた記録です。

文字をいくら食べても足りない

音楽が好きだ。それに付随する歌詞の音韻が好きだ。詩も文章も好き、コンピューターに表示されるような文章もそれ自体に「コンピューターみたい」という印象を持たせる文字列が存在していることが楽しくて仕方がない。

 

最近は詩に手を出したり古典に戻ったりしながら、反動のようにTwitterの海に身を沈めて(文字通り、どぶ川に沈むのだ)文字をずっと食べ続けている。それでもなんとなく足りない気がして自分で文字を書き写してみたり文字自体のデザインについて考えてみたり、手当たり次第に美術館に足を運んだりもしているが、なんとなく欠乏感がぬぐえない。

 

文章。小説、ブログ、エッセイ、学術書、論文、Twitterに溢れるあらゆる言説、インスタの抽象化された個人の話し方、TikTokのコメントの味、どれも好きだ。

詩、短歌、俳句、歌詞、ラップのリリック、概要欄、美大に行くとよく見かける展示の説明書き、建築誌のコンセプト集、広告、短文もだいたい読んでいる。

古文漢文は二次試験まで一緒にいた相棒で受験が終わってからも趣味で色々読んでいるし、日英仏で読めるものがあったら探している。最近は韓国語も始めた。

 

これでも足りない。まだ私が触れられる、吸収できる文体はあるのではないかと思いながらずっと飢えている。

 

自分で書いてみたら物を見るときの地平が変わるだろうかとも思ったがそんなこともないらしい。そもそも自分の書けるものの限界を書きたいものが常に超えていってしまって、周囲からしたら病的に数をこなして書けるものを増やしているようでも、私からしたら全然足りない。私が満足いかないのだから評価には評価以上の意味がない。

 

だから文章もSNSも詩歌もあらゆる媒体で書きながら新しいアカウント、ペンネームの作成に追われ続けている。

 

いつも見ている文字は一つとして同じ意味を持っていないはずなのにこんなに足りない気がするのがおかしくて、読んでも足りない、嘘みたいに足りない。これ以上の感受性を持ったら人間関係に耐えられないというくらいには感受性に困っていないはずなのに、それを貪欲が追い越していってしまう。

 

焦る、どうしても焦る、今以上に時間が減っていく人生をどうやって楽しく生きてゆこう。ルーチンワークが増えたら文字を求めて周囲に何をしでかすか分からない。